この(レギーネ事件の)秘密を解く者は、私の思想の秘密を解く者だ。(『日記』)

 

続けて行け、なんじ人生の芝居よ、お前を喜劇と呼んでいいのか悲劇と名づけていいのか誰にもわからない、お前の終りを見たものはいないからだ!

続けて行け、なんじ人生の芝居よ、お前のもとでは使ったお金と同じように人生は返してもらえないのだ!(桝田啓三郎訳『反復』)

 

 

 

 

 フランクフルトのゲーテの家(20087.24

 

 

  「永遠なる女性はわれらを引きて昇らしむ」(『ファウスト』の終り)

 

 

 

§目次§

 

著者と読者

1、哲学者と結婚

2、あれかこれか

3、憂愁の好い餌

4、コルサー

5、天才

6、キルケゴールはレギーネをなぜ捨てたのか?

7、「不幸な恋の幸福」

8、忍ぶ恋(しのぶこい)

 

 

 

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キルケゴールはなぜレギーネを捨てたのか?

 

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著者と読者

 

著者

今日はひな祭りなので、かわいい青い眼の女の子の話をさせてください。

読者

おい、おい、何を言ってるんだ。そんなことを言ってると、前の会長に「哲学研究の会だ」って怒られるぞ。

著者

そう言わずに聴いてください。ヒロインの名をレギーネ・オルセンと申します。

読者

セーレン・キルケゴールの恋人か。

著者

哲学者にしては珍しく悲しい恋の物語なんです。

二人が初めて出会ったのは、1837年5月のことです。セーレンは24歳のコペンハーゲン大学の学生で、レギーネは15歳のオルセン家のお嬢様でした。

15歳といえば今の日本の中学三年生です。

あっ、そういえば、キルケゴールも(1813年)55日生まれで、もう一方の反ヘーゲルの旗頭、カール・マルクスと同じ(1818年)誕生日です。

セーレンが男の子の節句に生れたなら、レギーネは女の子の節句の今日だとよかったけれどそうではなく、(1823年)123日です。

読者

そんなこと関係ないぞ。その恋の物語りはどうしたんだ。

著者

セーレンは純情可憐なレギーネにぞっこん惚れこんでしまいます。

今はストーカーという便利な言葉がありますが、レギーネが音楽のレッスンで通う道筋で待ち伏せします。また、二人で宗教の本を読んだり、プレゼントを交換したりします。

そうして3年後の184098日、レギーネがピアノを弾いているときに、「ああ、音楽などはどうでもよいのです。わたしが求めているのは、あなたです。この二年の間私は、いつもあなたを求めてきました。」

と言ってプロポーズします。

そのとき、レギーネは突然のことにものも言えなかったそうです。セーレンはレギーネの父オルセンにかけ合って二日後に婚約が成立します。

読者

哲学者としては上首尾だ。日本語の哲学は「鉄」に通じ、堅いイメージが付きまとう。

著者

真面目に聞いてくださいよ。

読者

真面目な話、一般の人にとってはそうだ。哲学者というのは女と無縁のイメージだ。

「一度たりとも女性との性体験のなかった」(中島義道『現代思想』1994.3「カントの女性観」)カントや『女について』を書いたショーペンハウアーが有名だ。

 

 

自然はライオンに爪と歯を、象には長い牙を、イノシシには牙を、烏賊(いか)には水をにごす墨を与えたように、女には、自己防衛のために偽装術を賦与したもの(秋山英夫訳『女について』)

 

だそうだ。

 

著者

その女嫌いということになっているショーペンハウアーには「隠し女」がいたようですが。

読者

そう、彼女の名をカロリーネ・メドンという(西尾幹二『世界の名著ショーペンハウアー』による)。

まあ、一筋縄でいかないのが哲学者という種族だ。

 

君の好きなニーチェは「女のところに行く時は鞭を忘れるな」と書いているが、実生活ではだいぶ奥手だったらしい。

ソクラテス(プラトン)がディオティマから愛の事(エローテイカ)を教わったように、ツァラトゥストラ(ニーチェ)は老婆からこの「小さな真理」を与えられたということになっている。

 

古代では、「プラトニックラブ」の言葉を今日まで残すプラトンも独身だった。彼の師匠、妻帯者ソクラテスは例外というわけだ。「哲学者が結婚すれば喜劇に終わる」というのを実証するためにソクラテスは結婚したというのはニーチェの説だ。

ソクラテスは彼の人生そのものもイロニーにしたわけだ。

著者

それはニーチェのフィクションという面が強いでしょう。

読者

そうだ。事実と虚構を織り交ぜたニーチェのお得意のやり方だ。この世をロゴスでなく、ミュトス「物語」としてとらえるやり方だ。

ニーチェはそのフィクションの中に個々の事実以上の真理を盛り込むのだ。

著者

プラトニックラブ云々は、「少年愛」の盛んだった古代ギリシアでは全く事情が違うのではないでしょうか。

読者

古代とは限らず他の時代には、その時代が暗黙のうちに前提としているものがある。その地盤を無視して、現代の尺度を当てはめることはできない。

そうは言うものの当の本人自身がそれぞれの「現代」に生きているので、そこから離れ、他の時代見ることは、大変まれだ。

著者

樗牛の青臭い言葉で申し訳ないんですが、「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」というわけですね。

読者

いや、「申し訳ない」ことはない。

現代に必要なのは、素手で西洋文明に立ち向かった明治の人のような「青臭さ」つまりは「純粋さと真剣さ」ではないのか。

現代の「教育」によって、皆「明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」という貧しい時代の哲学を刷り込まれてしまう。

 

 

彼は小石のように滑らかに擦り減らされており現今流通の貨幣のように通りがいい。世間は彼を絶望していると看なすどころか人間はすべてかくあるべきものと考えているのである。(斉藤信治訳『死に至る病』p54

 

 

 

私たちの時代は、この人間まるごとの「滑らかに擦り減」らすことを「教育」と命名している。

著者

ずいぶん大げさな物言いですね。

読者

ちっとも大げさではない。

すべて気づかずに行われている。世の教育者は、大真面目で「人間はすべてかくあるべきもの」と考えている。これほど恐ろしいことはない。

著者

そうです。乏しい時代の乏しい教育です。

おまけに、自分たちは豊かだと思っているのです。豊かさを追求して、ますます貧しくなっていく。そのことに気づかない。

読者

わかってるじゃないか。

指一本とか、目玉一個、100万円とかをなくして気づかない人間はいない。だが、多くの人が「まるごとの人間」を喪失し、気づかずにいる。

著者

それは『死に至る病』にありますね。

読者

問うべき問いは「人間とは何か?」、「豊かさとは何か?」、「教育とは何か?」なのだが、問われることがない。

根源を問うのは時間とエネルギーがかかり、人生の競争から取り残されてしまう。答えは始めから決まっているのだ。

 

一つの哲学が圧倒的に優勢となり、もはや名前をつける必要がなくなった。が、ニーチェは『悲劇の誕生』で「ソクラテス主義」と呼んでいる。

それは「今日この瞬間に至るまで、いな、未来永遠にわたって、まるで夕日を受けてだんだん大きくなってゆく影のように、後世にひろがって」(『悲劇の誕生』15)いる。

著者

 人々は『悲劇の誕生』一冊さえ理解していないんじゃないでしょうか。

読者

そうだ。

一冊を理解するにしても、全体像が見えていないと出来ない。まあ、当然といえば当然だ。

 

現代の「教育」と称するものは、この「ソクラテス主義」、「理論的楽天主義」に支えられている。

独創的な思想家は常に反時代的だ。逆に言えば、当人の「現代」にうまく適応できないものが多い。

キルケゴールもそれに近い。

著者

そのセーレン・キルケゴールですが、レギーネと初めてあった頃、セーレンは香水をふりまき、足しげくカフェに通ういっぱしのプレーボーイだったのです。

「マッチ売りの少女」などの童話で知られるアンデルセンや「コルサー事件」で後の対決することになるメラーなどが仲間でした。

カフェーにたむろし、文学論にうつつを抜かしました。

読者

肖像を見ると、今の言葉で言う「イケメン」だ。

著者

そういう言葉を使うと、キルケゴールが身近な感じになります。

 

遊び人のキルケゴールは、放蕩生活で借金をつくり、父に清算してもらったそうです。

読者

金持ちの子供に生れるといいね。

著者

そこまではありふれた話ですが、清純で美しいお嬢様と婚約にこぎつけてから普通の人と違うのです。

めでたく婚約が成立した翌日に、セーレンは「私は間違いを犯した」とすっかり憂鬱になってしまいます。

読者

そんなことは私たちにもよくあることだ。人生の岐路に立たされ、果たして自分の選択がよいのかどうか迷うものだ。

著者

セーレンは婚約指輪を送り返します。

レギーネは絶望し、死ぬとさえ言いました。世故に長けたレギーネの父、大蔵省局長オルセンもセーレンに撤回を懇願します。

だが、セーレンは強引に婚約破棄を押し通します。

 

この事件をセーレンは「彼女は叫び、私は苦痛を選んだ」と書いています。また、このことは当時のコペンハーゲンで有名はスキャンダルとなりました。

皆、セーレンを非難して、レギーネに同情しました。セーレンは「頭はいいが、金持ちのボンボンのヤクザな奴」ということになってしまいました。

読者

セーレンがレギーネをおもちゃにしたようなものだ。

著者

レギーネとの関係を切ったわずか14日後、ベルリンに旅立つのです。

読者

シュタイン夫人との恋のごたごたから身を引くためにイタリアに逃れた枢密顧問官ゲーテのようだ。

著者

逃れたという側面もあるでしょうが、キルケゴールは、勉強のために行ったのです。

同じ年(1841年秋)に、ベルリン大学に招聘された老シェリング(1775~1854)の講義を聴いています。

 

婚約破棄以来、キルケゴールの猛烈な著作活動が始まります。

これは文字どうり世界史上最も難解な、長い長い婚約破棄の言い訳というべきものです。

読者

そういう物言いは好きじゃない。

著者

レギーネへの間接的な伝達のために、著者や刊行者の名前が架空の人物になっています。

 

1843年――ヴィクトル・エルミタ刊行『あれかーこれか』、沈黙のヨハンネス『おそれとおののき』

      コンスタン・コンスタンティウス著『反復』

1844年――ヨハンネス・クリマクス著、Sキルケゴール刊行『哲学的断片』、ヴィギリウス・ハウフニエンシス著『不安の概念』

1845年――製本屋ヒラリウス編集、印刷、出版『人生行路の諸段階』

1846年――ヨハンネス・クリマクス著、Sキルケゴール刊行『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』

 

これは出版した年ですから、もちろん書かれたのはそれ以前です。

著者とされる架空の人物の数は、『あれかこれか』では五名、『反復』では二名、『人生行路の諸段階』では十名にものぼります。同時にキルケゴールは実名で『講話』と『日記』を書いています。短期間の膨大な著作にかけた爆発的エネルギーは大変なものです。

 

プラトンがソクラテスの死をきっかけに、ソクラテスを主人公とする対話編を書いたように、キルケゴールはレギーネへの婚約破棄をきっかけに、仮名の著書を著します。

1843年に発表した三つの作品、『あれかこれか』、『おそれとおののき』、『反復』だけでも、たちまちキルケゴールはデンマーク第一の作家とみなされるようになります。

「学問的な哲学体系」を標榜したヘーゲルをあてこすった作品名、『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の「・・・結びとしての・・・後書き」が示すように、書くべきことは書き終えたとキルケゴールは考えた。そこに降ってわいたのがコルサー事件です。

 

これは去年のオウム事件で・放送大学の講師をしていた若くて優秀な宗教学者が、マスコミの「オウム悪い」の大合唱で失業させられたのに似ています。

読者

おい、生臭いことを言うな。

著者

すみません。

 

キルケゴールは逆にコルサーを挑発します。その願いどうりキルケゴールを嘲笑する漫画まではいった記事が載ります。町であった子供たちにも「あれかこれか」と馬鹿にされる始末です。

 

「コルサー」は現代の大衆の非凡な人に対するルサンチマン(ressentiment〔フランス語〕弱者の強者に対する、平凡なものが非凡なものに対するねたみ、復讐、反感)をあらわす現代の雑誌、出版物のさきがけのようです。

テオドール・ヘッカーが1922年に訳した『現代の批判』(『J・L・ハイベルク刊行「日常生活」の作者の小説「二つの時代」に対する文学評論』の後半の当る)を読みヤスパースは賞賛します。

また、『存在と時間』(1927)のダスマン(ひと・世人)の概念はじめハイデッガーは、おおくをキルケゴールから借りていると言われています。

読者

ほう、ぜひ読んでみたいね。

著者

桝田啓三郎訳で岩波文庫にあります。これは日本の「現代の批判」でもあります。

読者

島田裕巳のことを言いたいのだろう。言わないほうがいいな。

著者

・・・(無言)

読者

キルケゴールのほうはどうしたんだ。

著者

「コスサー」との対決は、結局キルケゴールの勝ちとなります。

が、勝者の方も深手を負います。

 

1847年の『現代の批判』(つまりは『文芸評論』)と翌年の『愛のわざ』は実名で出版したものです。

キルケゴールは実名と仮名を使い分けます。

コペンハーゲン大学のマギステル論文『イロニーの概念について―たえずソクラテスを顧みしつつ』(レギーネ事件が進行していく過程で書いた)はもちろん実名で書かれました。

前にも言った、レギーネへの間接的伝達と称した仮名の作品は、1843年から1846年に、『あれかーこれか』、『おそれとおののき』、『反復』、『哲学的断片』、『不安の概念』、『人生行路の諸段階』、『非学問的後書き』が書かれます。

コルサー事件の後は、アンティクリマクス著、セーレン・キルケゴール刊として、二つの重要な作品、『死に至る病』と『キリスト教の修練』を出版しています。その後の三年間は、重要な作品がありません。この時期は日記も手控えられたとのことです。

そして死の一年ほど前から、白鳥の歌にしてはあまりにも激烈なデンマーク国教会への論戦が始まります。『瞬間』という雑誌を出し、十号まで行った所で亡くなってしまうのです。

 

レギーネとの婚約破棄から死まで、14年しかありません。

初めの5年間で仮名の各品群を書き、7年目で、『死に至る病』と『キリスト教の修練』を書き、14年目で永眠します。

読者

キルケゴールもかなり偏りがあるねえ。

 

君に一つ注文がある。引用をやめてくれないか。前回のルソーは、引用ばかりだ。あれじゃルソーの著作を索引でテーマごとに並べたほうがまだましだ。

著者

出典を書くのにだいぶ時間とエネルギーをかけているのですが。

読者

それは無駄というものだ。

著者

最低限必要でしょう。

読者

なんといっても自分の頭で考え、自分の言葉で書くのが肝要だ。



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キルケゴールはなぜレギーネを捨てたのか?

 

1、哲学者と結婚

 

これまで偉大な哲学者で結婚したものがいたろうか?

ヘラクレイトス、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアーらは結婚しなかった。とニーチェは『道徳の系譜』第三論文で言う。

私たちは結婚しなかった偉大な哲学者のリストに、ニーチェ本人とキルケゴールを付け加えることができる。

 

ところが、キルケゴールは危うくこのリストから除外されるところだった。レギーネ・オルセンと婚約まで行ったのである。

このリストの例外はソクラテスである。ニーチェによれば、「偉大な哲学者は結婚しない」という命題を実証するために、イロニーをもってクサンティッペと結婚したという。真の哲学者は仏陀が息子の誕生を知らされたときのように、「私のラーフラが生れた、私に頚枷(くびかせ)がつけられた。」と嘆くという。

前回私の担当だったジャン・ジャック・ルソーは、実際に子供を捨てこの頚枷を取った悲惨な実例ということになる。

 

2、あれかこれか

 

キルケゴールの哲学は全体としてみれば、当時ヨーロッパを風靡していたヘーゲルのアンチ・テーゼである。それはキルケゴールの著書の題名を見ただけでもわかる。

ヘーゲルの「弁証法」の原型はパウロの『ピリピ人への手紙』二章にある(量義治『西洋近世哲学史』放送大学182㌻)。

つまり、「人としての性質を持って現われ」(8)る以前のイエス・キリストが「アン・ジッヒ」であり、「人としての性質を持って現われ」(8)た後が、「フィール・ジッヒ」、そして「神は、キリストを高く上げて」(9)「アン・ウント・フィール・ジッヒ」にあたる。

しかし、キリスト教の信仰の無い私たちにとっては荒唐無稽としか言いようのない根拠である。

キルケゴールの『おそれとおののき』も同じ箇所、「私(パウロ)のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(『ピリピ人への手紙』二章12)から題名が取られている。

また、ヘーゲルの体系哲学に対して『哲学的断片』を書く。

ヘーゲルの哲学は「あれもこれも」アウフヘーベンして総合する必然的展開であるとする。それに対しての当て付けで、キルケゴールは『あれかこれか』という題名の本を書く。

 

現実の私たちの人生は「あれかこれか」の選択に満ちてはいないか。進学か就職か?結婚か仕事か?自由か家庭か?などである。

仏教の教祖も若き日に「あれかこれか」に深く悩んだ。王子として恵まれた環境に生れ、父、浄飯王の後継者として王としての人生を歩むか、修行者として出家となるかである。

その悩みの心の中の道程は、仏典の「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の物語によく伝えられている。館の東西南北の門から出て、それぞれ老人、病人、死人、出家者に出会い、四番目に自分の理想像を見出したというのである。ついに妻子と王の後継ぎの地位を捨てて出家する。

 

これは私から遠い神話ではなく、私たちの生き方の第一の問いである。

人生に「ただ一つ」の「無くてはならぬもの」(ルカ1042)を求めることができるか。この一度限りに人生に「私がそのために生きそして死ぬことを心から願うようなイデーを見い出すこと」(21才のキルケゴールの手記)ができるか。

前々回の私の担当だったパスカルの用語では「尉戯divertissement(ディベルティスマン、気晴らし)か本来性か」と一般化できる。

世間の人々は「尉戯」に囲まれ、「尉戯」の中で暮らし、本来性を注意深く避け、深淵を見ないようにする。人は「尉戯」のなかでのみ幸福でいられる。

現代は科学技術が空前のスケールで「尉戯」を量産する幸福な時代である。

 

だが、大思想家はすべて世俗を捨て、本来性を選ぶ。仏陀の出家はその好例である。

また、ニーチェの自伝『この人を見よ』のサブタイトルは手塚富雄訳で「わたしはいかにしてわたしとなるか」(Wie man wird, was man ist.)となり、本来性を指し示している。

 

結婚はこの世とのしがらみに縛られ、本来性の妨げとなる。使徒パウロの独身の勧め(Ⅰコリント7:7)も同様の理由であろう。

 

3、憂愁の好い餌

 

そんなことは百も承知であったはずのキルケゴールが、なぜ結婚寸前まで行ったのか。

 

いったいキルケゴールは始めから破局を目指していたとは考えられないか。

その兆候は『日記』(橋本淳『セーレン・キルケゴールの日誌』以下『日記』と書く)にある。

「不思議にも、もともと私には結婚する考えが少しもなかった」(婚約破棄をした1841年の日付のない『日記』29㌻)

「もともと実現で競うもない関係〔結婚〕へ自分を押し込む」(1849年の日付のない『日記』97㌻)

「もし彼女が私の妻となった時は、歴史へと彼女を伴うことが出来ない、決してそれは出来ない。彼女は家庭の人となり、妻となることを願っているかもしれない、けれどもそこでは、もはや私の恋人である地位にとどまれないでしょう。凡てが一つの不幸な愛の物語となるよう設計されねばならず、私にとって彼女は、『私が責めの凡てを負う』愛するものでいなければならないのである」(184997日『日記』106㌻)

 

「人生の芝居」(シェークスピアから借りたと思われる)はキルケゴールの愛用語である。その「人生の芝居」をキルケゴールは「不幸な愛の物語となるよう設計」したのではないのか。

それは明確に意識したことではあるまい。そもそも私たちの行為は、多くの場合、意識された合理性に基づいて行われるわけではない。

究極の動機を問われれば不可解な部分に突き当たる。その「不可解な部分」を西洋人は「神」を持ち出して説明する。「全知全能」ということになっているのだから、何でもござれである。

 

 

宗教的な言い方をすれば、かれをとらえるために神ご自身がこの少女を必要とされているかのようだ、といえるかもしれない。しかし、それにしても、かの女は、いかなる現実でもなく、いわば釣り針の先につけられたミミズのようなものである。(前田敬作訳『反復』)

 

 

レギーネと初めて出会った頃のキルケゴールは「破滅への道」という放蕩生活を送り、借金を父に払ってもらった。また、娼婦を買い、童貞を失い、その悔恨から自殺を企てたという。

 この時期にレギーネと出会い、うまくことが運んでしまう。キルエゴールの生まれつきの「憂愁は好い餌にありつき」、「憂愁は恐ろしい栄養物を手に入れたのである」。レギーネとの関係の切れた7年後、1848年の日記(59㌻)で、レギーネを「好い餌」「恐ろしい栄養物」に譬えている。

 

 「私が著作家になれたのは、本質的には、彼女と私の憂愁に、そして私の金銭のおかげである」と日記は続く。

 「金銭のおかげ」、これは誰もが納得できる。これ以上有効な金の使い方はあるまい。人類はキルケゴールの鋭い忠告を受けることができた。それは十分に聞き入れたとは言いがたいが、ともかくも、私たちはキルケゴールの父、ミカエルに感謝しなければならない。

「憂愁」、これは訳のわからないものである。と同時に誰もが多少なりはもっているものである。私が思い浮かべる最も高貴な例は、仏教の教祖である。王子、ゴータマ・シッダルタは29才の時、「憂愁」にかられ、妻子を捨て出家する。

「『苦しみ』は、この世との異質性を示す質的な表現である」(『日記』163㌻)とは、「一切皆苦」を旗印とする仏教の教祖が言ってもよさそうである。

 

キルケゴールがあげる著作家になりえた第一の理由が「レギーネ」である。そのレギーネが「憂愁の好い餌」であり、「恐ろしい栄養物」なのである。『反復』にある「釣り針の先につけられたミミズ」という表現とあわせ、恋人を譬えるのに何と言うグロテスクな、ふさわしからざる比喩を使うのであろうか。

 

4、コルサー

 

 「金持ちのボンボンで頭はいいがヤクゼな奴」とキルケゴールを当時のコペンハーゲンの人々は思っていた。そうした評価を笑ってはならない。彼らは当時から現代までの160年あまりの歴史をまったく知らない。

 現代ではキルケゴールは実存主義といわれる思潮の祖として、弁証法神学の先駆けとしての評価が定着している。それを出発点として、不安、憂愁、偽名の著作、私生活が説明される。しかし、時間は逆に流れたのだ。

始めにキルケゴールの私生活があり、日記をつけ、本を書き、様々なことが知れ渡ったのである。

思想家キルケゴールの動かぬイメージから出発して、そこから彼の時代を評価するのは、現在から過去を見ることである。

 

 当時のコペンハーゲンの人々は、キルケゴールに対して全く違ったイメージを持っていた。まずは宮廷顧問官オルセンの令嬢レギーネとの婚約を一方的に破棄した悪役として知られた。

キルケゴールは婚約破棄直後に書いた仮名の真の著者が誰であるか知られないように、劇場の予約をし、始めと終りだけに姿を現し、本など書いている暇はないという偽装までした。ところが当時のコペンハーゲンは狭く、さらに本を書く人間は少ない。才気あふるる著書が書けるのはキルケゴールしかいないことは、周辺の人にはすぐわかった。当時の教会、コペンハーゲン大学の主だった人物、雑誌「コスサー」の編集長などは、キルケゴールの知己であった。

 同時に、キルケゴールは『あれかこれか』、とくに第一部の最後の章である『誘惑者の日記』の著者として知られていた。まだ著作行が職業として定着していない時代であり、キルケゴールは自費出版をしなければならなかった。

オルセン家の令嬢とスキャンダルを起こし、結婚もせず、定職にもつかず、父の遺産で生活していた男がよい評判を得るはずがない。

キルケゴールの『日記』(192㌻)は、レギーネの言葉として「ではあなたは、わたしと残酷な遊びにふけっていらしたのですね」と伝えている。かつての悪友で雑誌「コルサー」に関係していたメラーも、1845年の終りに「花嫁を拷問台にのせて実験し、生きた肉体を解剖し、彼女の魂を小刻みに苦しめた」とレギーネ事件の痛いところをつく。

それに対しキルケゴールは、「どうか早く私も『コルサー』の取り上げてもらいたいものだ」と挑発する。その要望どうりにゴシップ誌「コルサー」にキルケゴールの漫画が載せられ、コペンハーゲンの町を歩くと、子供にまで「あれかこれか」とか「セーレン・キルケゴール」と後ろ指を差されるまでになる。

 

5、天才

 

 「天才とは、風が吹けば消えてしまう蝋燭の火のようなものだ」というアンデルセン(『しがないヴァイオリン弾き』)の主張に対して、「天才とは嵐がますます燃え上がらせるばかりの大火災のようなものだ」(『今なお行けるものの手記』)とキルケゴールは反論する。

キルケゴールは生涯に三つの嵐を巻き起こし、天才を燃焼させる。レギーネへの婚約破棄、コルサーへの挑発、死の前年に始めた教会攻撃である。レギーネ事件で結婚の道を閉ざし、教会攻撃で就職の道を閉ざす。

 

 1848年は革命の年である。2月にはパリで暴動が起こり、ルイ・フィリップはイギリスに亡命する。3月にはウィーンにも飛び火し、メッテルニヒが追放される。デンマークでも国王フレデリック7世が絶対王政を廃し、立憲君主制をとる。

 キルケゴール個人にとっても父親からもらった遺産が底をつき、邸宅と版権を売っている。こうした嵐の年にこそキルケゴールの本領が発揮され、天才の炎を燃焼させる。『死に至る病』、『キリスト教の修練』、『わが著作活動の視点』を書く。

 

 

私の秀でた所は、人生のさまざまな葛藤にさいして・・・それを「試練」として常に受け取る点である。(『1849年の日記』)

 

キルケゴールは危機の年1848年を「試練」として受け取った。

 同時代人の中で、ただ一人キルケゴール本人は彼が歴史上いかに重要な地位を占めるかを知っていた。『日記』にはレギーネを伴って歴史に記されると繰り返し書かれている。

 また生涯を通じ「たえずソクラテスを顧みた」キルケゴールは、ソクラテスと同じように「個人的には自己自身にかかわるものでしかなかった」生涯が、「そこに摂理が働いて世界史的意義」を持つようになるという。「かの一人の人」レギーネのために書いた本が世界史的な意義を持つことを知っているというのである。

 さらに、「なぜなら私は一個の天才だからである。天才は摂理を犯してでもまったく直接的個人的に著作活動に携わることになる。」とアンダーラインを引き日記(79㌻)に記す

金持ちの大学生だったキルケゴールは自分の天才を確信し、レギーネとの婚約を破棄し、凡人の掟を踏みにじる。その後に動揺があったとはいえ、キルケゴールの自作自演の「人生の芝居」はおよそ始めに描いた筋書きどうりに事が運んだ。

婚約破棄の二年後にレギーネが結婚したのは筋書きにはなかった。また、「死の床に伏して臨終の折に、生きている間に許されなかったこと(レギーネへの)愛を告白」するというキルケゴールが「慰めとしていたただ一つのこと」(『日記』23㌻)は、レギーネが夫に従い西インドに行ったために実現せずに終わった。

キルケゴールには婚約破棄をし、その行為に耐える強さがあった。逆にレギーネへの思いが創作力をかき立て、その著作によって歴史に刻まれることになった。

 

 かくして160年後の東洋の東端の島国の人々まで、「レギーネってなんてきれいなんだ」と賛嘆されるようになった。

 

6、キルケゴールはレギーネをなぜ捨てたのか?

 

 キルケゴールはレギーネをなぜ捨てたのか?

日記には「『懺悔者』だから婚約を破棄した」(187㌻)とあるが、これは理由になっていない。それならばはじめから婚約すべきではなかった。

 また、「憂愁」のために婚約破棄をしたとも書いてある。これも「婚約破棄をしたいからした」というようなもので、理由になっていない。「私の前歴」とも書いてある。それはキルケゴールが「大地震」の体験と称する父の犯した罪のためなのであろうか。「処女の女中を犯した父と犯された母の子キルケゴール」、こういう言い方はいかにも恐ろしく罪が深いようだが、このようなことは世間にいくらでもある。言い方を変えれば、身の回りの世話をしていた人が、後妻となったということである。キルケゴールの母にとっても悪い話ではなかったのではないか。

 

 また「大地震」は父が少年の日、神を呪ったことだとも言われている。私たちにはわかりにくいことだが、キリスト教の「罪」という言葉で言い表せるのであろう。罪は全人類が背負っているものであり、「私の前歴」というようなものではない。

 しかし、いずれにしろ始めから婚約しなければよかったのである。また日記の「あらゆる犠牲を払って著作活動を続けてきた」(『日記』)と、自分の結婚生活をも犠牲にして本を書いたとも取れる。

 

 キルケゴールは婚約破棄をしてしまい、その弁解に著作活動に邁進したのでなく、逆に、歴史にのこる著作を書くために、はなから「誘惑者」となり、婚約破棄をもくろんでいたとは考えられないだろうか。

読むに値する著作には膨大なエネルギーが必要であり、「エロース」の力、「下半身」の力が必要となる。

「一たびエロスに触れさえすれば」、誰もが「詩人」になれる(『饗宴』196)とプラトンは記している。

 キルケゴールはレギーネ一人のために著作を著したというが、20前後の女の子にとって、難しすぎる本ばかりである。

「一人の人のため」と同時に「多数の読者」のために本を書いたのであろう。

 日記は本人の備忘ためにつけるかもしれない。が、全知全能であるという神のためにもつける必要はない。やはり後日他人が日記を見るのを想定しているのであろう。

 

 1843416日、聖母教会にてキルケゴールはレギーネから心のこもった「うなずき」を受ける。レギーネがスレーゲルと婚約したことを知らずにいたキルケゴールは大いに動揺する。その婚約を知った後のキルケゴールは、自分の婚約破棄からわずか一年足らずの後に他の男と婚約したレギーネの変わり身の早さを非難する。自分のほうから近づき、婚約し、強引に破棄したにもかかわらずである。

 レギーネの「うなずき」はいったい何を意味したのか?

「私に散々恥をかかしておいて、私はあなたなしでもやっていけるのよ。私がスレーゲルと結婚するのをしらないでしょう。あなたの『憂愁』とやらわけのわからないものとは付き合っていられない」というレギーネの小さな復讐ではなかったのか。

 

 キルケゴールは『日記』(202㌻)でゲーテとゼーゼンハイムの少女フリーデリケの恋愛に触れている。

21歳のシュトラスブルク大学の学生ゲーテは、牧師の娘フリーデリケと恋に落ちるが、ゲーテのほうから去っている。フリーデリケはこの時の愛に殉じ、61歳で亡くなるまで独身を通す。結婚し、子供を産み、多くの人の考える幸福な人生を送るより、一年にも満たないゲーテとの交際の思い出に生きることを選んだ。40年以上にわたり「不幸な恋の幸福」をわがものとした。

キルケゴール/レギーネとゲーテ/フリーデリケの共通点は、深い関係になる直前で男の方から逃げたことである。

 

 キルケゴールは前回私の担当であったルソーと外面上同じ悩みを悩んだ。

ルソーはジュネーブで時計職人としての全うな人生が送れず、さまざまな試みの後、『学問芸術論』の成功で、不本意ながらも思想家の道を歩き出す。

 キルケゴールもレギーネと幸福な家庭を築きたかったが、レギーネに誠実になればなるほど婚約破棄をし、ひいてはたくさんの本を書かなければならないようになる。これはキルケゴールがこしらえた後世の人々への「人生の芝居」のシナリオではないのか。

レギーネとの婚約破棄はキルケゴールが意志し、実行したように思えてならない。つまり、レギーネとの結婚生活よりも多くの著作を残すことを選んだ。フリーデリケのように「不幸な恋の幸福」をわがものとしたかったのである。

 確かに、ルソーやキルケゴールのような名声は、多くの人が熱望し、ほんの少しの者にしか与えられない希少価値がある。

しかし、家庭を持ち幸福な生活を送るのは多くの人が実現している。多数者の幸福と少数の名声はどちらが価値のあるものであろうか。ともかくも、少数者の名声には不幸と苦難が付きまとう。

 

レギーネの友人の女流作家、ハンネ・ムーリエは、レギーネも目を通した「レギーネの思い出」でキルケゴールへの好意的な理解を示している。

 

 

 

こうした破局へと彼を駆ったのは、宗教的な使命をめぐるキルケゴールの自己理解でした。彼が自らの召命をまっとうするためしは、この世の誰かに自分を繋げ留めてはいけないのでした。神からの要求にそって生きていくためには、自分がもつ最上のものを犠牲としなければなりませんでした。だから彼は、あなた(レギーネ)への愛を自らの著作活動の犠牲としなければなりませんでした。(『日記』220㌻)

 

 ソクラテスが一人の女性、ディオティマからエロスについて学んだように、キルケゴールは「最上のものを」(62㌻)レギーネの負うているという。ディオティマは「不滅の名声を永遠に打建てる」エロスのために「異常なほどの心理状態」(『饗宴』208C)を教える。

 キルケゴールは不滅の名声を打建てた。

それは少女がすべてを捧げるという最高状態まで行き、突如としてその関係を断ち切る」という「異常な心理」でなしえたのではないか。

これがキルケゴールの「憂愁の好い餌」、「恐ろしい栄養物」、「釣り針の先につけられたミミズ」ではなかろうか。

それは確かに正常な心理ではない。

 

7、「不幸な恋の幸福」

 

 ベルリオーズの有名な「幻想交響曲」は、女優ハリエット・スミスソンへの失恋の実体験に基づいて作曲された。不幸な恋の幸福な成果である。

ところが後に、幻想交響曲の演奏会にハリエットは偶然に姿を現し、自分が主題となっていることを知り感動する。交際が始まり、結婚に至り、一子をもうける。ところが、その後すぐに「幻想」が消えうせ夫婦仲は冷え込み、別居することになる。ベルリオーズの幸福な恋は不幸に終わる。

 

ディオティマによれば(『饗宴』)、エロースの母は欠乏(ぺニア)である。欲望が満たされ、欠乏が消滅するとき、エロースも力を失う。

 

ベルリオーズのように劇的でなくても、幾多の苦難の末、添い遂げた恋の次に来たのは、退屈と苦難の日々であったという話は珍しいことではない。

というよりも、恋が、性交を前にした瞬間の心のときめきであり、結婚生活では長い年月にわたり妻子の扶養義務が前面の押し立てられるということだけなのでろうか。

「幸福な恋の不幸」を実感している人々は私たちの周りにも見つかる。

「幸福な恋の不幸」の逆は、「不幸な恋の幸福」である。

 

 

原理的に不幸な恋は、実を言うと、愛し合う二人にとっても幸せである。双方がひそかに、不幸な恋を、たのしく思い出すことができる。不幸な恋の恋人は、幸福な恋の恋人とはちがって、ジャガイモを煮たり下着をつくろったりしない。(池内紀『ゲーテさん こんばんは』49㌻)

 

 

森鴎外の『舞姫』(1890年)にはモデルが実在し、ドイツ留学から帰国後、鴎外を追って来日した女性がいた。だが、周囲の人々は出世の妨げになるとドイツへ追い返す。
「出世の妨げ」、明治の人にとって、説得力に満ちた理由ではないか。

『舞姫』の終りの「憎むこころ今日までも残れりけり」とは、現実に鴎外が抱き続けた心情かもしれない。しかし、これは「不幸な恋の幸福」といえるであろう。周囲の期待にこたえ、鴎外は出世の階段の一番高いところまで登りつめ、文学者としても高い名声を得た。

 

 「不幸な恋の幸福」の古典的な例はダンテ(12651321)とベアトリーチェ(12651290)の恋であろう。

ダンテが9歳のとき同じ年のベアトリーチェに出会い、激しい恋に陥る。とはいうものの次に会うのは9年後で、街中で真っ白な服を着たベアトリーチェとすれ違い、会釈されたというだけのことである。(私はこのことがほとんどそのまま歴史的事実であると信じる。)それだけのことでダンテはベアトリーチェに熱病にかかったように恋焦がれ、『新生』(1293)と『神曲』(1321)をものにする。「ベアトリーチェ」の名を永遠のものとする。

 

 ゲーテほど数多くの豪奢な「不幸な恋の幸福」を享受したものはいない。高橋健二(『心』1975.11「ゲーテをめぐる女性たち」)によれば、「相愛の体験が顕著な作品に記念されている女性だけでも」十余人いるという。そのつど、結婚直前でゲーテは逃げた。池内紀はゲーテを「逃げる男」と命名している。

 

結局、妻にしたのは26歳年下の「ゲーテ閣下の家政婦にはふさわしくても、妻となるべき人ではない」(池内紀『ゲーテさん こんばんは』47㌻)クリスティアーネであった。華々しい女性遍歴の末、本物の「家政婦」を妻にしたジャンジャク・ルソーと似ている。

 

その妻にも先立たれた74歳のゲーテは、19歳のウルリーケに求婚した。仲介を買って出たのは小さな国といえども一国の君主、カール・アウグスト公である。旧知の公は「実現しっこないことを、また実現しなくてもいいことを承知していた」、「かわりにどっさり詩ができる」(池内紀『ゲーテさん こんばんは』194㌻)ことも知っていたという。

 

ゲーテ本人も、「詩を作るためには、恋をしなければ・・・」と歌い、「お年寄り、まだやめないのですか!相変わらず女の子ですか!」(高橋健二による)と自嘲している。

 

 

ダンテとゲーテが女性について信じたところのもの、――ダンテはそれを「彼女上より見まもりたれば、われも彼女を見入りぬ」と歌い、ゲーテはこれを訳して「永遠なる女性はわれらを引きて昇らしむ」と歌った。(信太正三訳『善悪の彼岸』23610224

 

 

 

プラトン風の言い方をすれば、エーロスの不思議な力により、魂に翼が生じ、天空に上昇する。

ダンテとベアトリーチェ、ゲーテとフリーデリケ(仮の代表者として)に続き、キルケゴールとレギーネをあげたい。

 

レギーネはラテン語で女王を意味するレギーナとも呼ばれていた。キルケゴールにとって、「心の女王<レギーナ>」であった(1839年『日記』18㌻)。

キルケゴールの著作活動はレギーネの「栄誉と賞賛のための記念碑」であり、彼は彼女によりそって歩む、

 

 

まるで儀典長のようにして彼女を勝利の栄光の中に導き入れ、そして語る、彼女のために少し場所をあけて下さい、『わたしたちふたりの、いとしい、可愛いレギーネ』のために、と。(『日記』204)

 

 

8、忍ぶ恋(しのぶこい)

 

わが国の『葉隠』(典型的な「主人道徳」の書である)によれば、「恋の至極(しごく)は忍ぶ恋(しのぶこい)」であり、「一生忍んで思い死にする事こそ恋の本意なれ」ちある。

 確かに「ドンジョバンニ」の熱愛者であり、『誘惑者の日記』の著者は、「恋の至極」を知っていた。レギーネとの恋を「一生忍んで思い死に」して、「恋の本意」を遂げたのである。

 

 コルサー(海賊)を撃退したヴァイキングの末裔にふさわしい恋ではないか。

 

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